旅行・地域

2008年4月10日 (木)

裏路の食堂

なんとなく心の晴れた気分で、

オレには似つかわしくない国際飯店を

【飯店とは飯屋ではなくホテルの意】

出たオレは、

駅へ向かうのに裏通りへ入り、

心の落ち着きを取り戻すため(?)

こぎたない食堂へ入った。

女の子(小学生ぐらいに見えた)が

呼び込みをしており、

オレはそれにまかせて入った。

白衣を着た子と

カラフルな(とはいえ色あせたような)色の

服を着た子(呼び込み専用)とがいて、

白衣を着た子が注文を聞きに着たわけだが、

その子は、オレの対面に座っちまって、

注文を聞きながらも、

「どこから来た?」

などという会話が始まっている。

オレは焼肉とスープとギョーザを頼んだわけだが、

とにかくこのギョーザの量には

驚嘆するものがあった。

オレは残すことができないタチで、

たまたま店の子が食事を始めたようなので

【このときは、客はオレだけ】

「ギョーザを手伝ってくれっ」と

ジェスチャーで勧めた。

オレを連れてきた子が、

それに答えようとしたかにも思えたんだが、

姉さん格の子に制止されてしまった。

こうとなれば、

腰を据えてかかるしかない。

オレはかなりの時間を費やしたが、

このギョーザとの格闘には勝利を収めた。

この間、

カメラを向けたりもしたんだが、

みんな厨房の中に隠れ込んじまってね。

オレを接客(?)してくれてる子に、

【注文を取りに来て、そのまま座り込んでしまった子】

≪彼女のために弁護しておくと、

座り込んだままではなく、

必要に応じて、

立ち上がっては仕事をこなしている。

何しろ、客よりこの子たちの方が多いのだ≫

写真を送るから住所を書け、と、

中国語っぽく書いてみせると、

きたない字【クセのある、と言ったほうがいいか】で

書き始めた。

それからは、

いままでのが、

恥じらいだったのかどうか

わからなくなるほどの積極さで、

カメラの前に並びだした。

大撮影大会である。

どうもオレを連れてきた子というのは

オチョウシ者で、

カメラを奪ってオレまで撮りだした。

オレは、

もう金を使うこともないだろう。と、

ジャッキー・チェン(車掌)と換えた

中国人用紙幣の

【この金は外貨と交換できない】

100元札を出した。

「なぜ外国人なのにこれを持っているんだ」

さすがに気になるようだ。

質すのではなく、

不思議そうに

【100元がもっとも大きな紙幣単位で、

おつりでもらうことがありえないため】

聞いてきたので、

笑ってすませておいた。

駅に向かう途中も写真を撮ったりしたが、

一番撮りたかったのは上海の街である。

窓から長い竿が出され、

洗濯物が干されている光景は圧巻であった。

が、

それを見たのは

ミンさんとタクシーに乗っているときであり、

オレのために奔走してくれている人の隣りで、

観光気分でシャッターを押すことはできなかった。

2008年2月 6日 (水)

北京国際飯店 -1-

朝、車掌がオレを連れていく、

そこは食堂車で、

車掌に連れてこられたのだから

タダだろうと思ってたんだが、

3元とられた。

高い、というイメージだったね。

ラーメンなんだろうが

日本のソバって感じのあっさり味で、

なかなかうまかったんで

高いのは大目にみましょう。

この車掌というのが、

ジャッキー・チェンとオレのある知人を

足して割ったような顔してて、

オレがカメラを持って窓の景色を見てたら

窓を開けてくれたりした。

そのジャッキー・チェンが、

金を替えてくれ、と言ってきた。

中国では

外国人用の通貨を欲しがることを聞いていた。

相場は知らないがいくらかは儲かる。

当然禁じられているわけだ。

オレはその程度の知識はあったが、

快く100元を100元で替えてやった。

ジャッキー・チェンは少し戸惑ったが、

本当にいいのか、

と念を押して喜んだ。

オレは悪いことはしたくないが、

うしろめたくないことなら気にならない。

たとえ1元でも利があれば、

オレの心が犯罪意識を持ち、

オレを責めたと思うけどね。

北京へ着けば、

CITSが出迎えに来ているはずであったが、

名前などを書いたカードを持つ人々の中に

オレを待つ者はいなかった。

北京国際飯店というところへ向かわねばならない。

ミンさんの話では

駅から見える立派なホテルだから

すぐにわかるらしいが、

そんなものは見えなかった。

とにかく足に任せて進むと、

大きな建造物がある。

「あれだ!」と思い込み、

近づいてみると≪北京国際飯店≫とある。

オレにはそういった旅の勘がある。

人、

いや、生きものには、

生きていくための勘が備わっているものなのだ。

その勘を研ぎ澄ませてさえいれば、

必要な情報は、

向こうから飛び込んでくる。

オレはそう信じ、

また実践して生きている。

信じきれない人は不思議がるが、

素直に思いおこせば、

誰でもそんな現象の一つや二つは

体験しいてるものなのだ。

ただ、それを、

気づかずにいたり、

偶然という言葉でかたづけてしまったり

しているだけなんだよね。

そして、

なによりも嘆くべきことは、

感知できないでいる正常でない自分を、

自覚できていないということだろうね。

かくいうオレだって、

人生の半分以上は

研ぎ澄まされた状態を保っちゃいないからね。

このへんが人類の愚かなるかわいさ、だと思う。

2008年1月27日 (日)

筆談(と書いてコミュニケーションと読む)

オレの乗る列車の改札が始まり、

無事自分の部屋を探し出した。

同室は、

年齢からして

大じいちゃんとその娘夫婦といった感じで、

オレから見ればおじいちゃんおばあちゃんと

ひいおじいちゃん、といったところである。

オレのベッドは2階だが、

下に腰を下ろして、

溶け込むでもなく

4人で顔を見合わせて座っていた。

車掌が来て

なにかジェスチャーをしているが

オレは分からず、

「オレ、わかんないよ」

といってみると、

分かったのかどうか出ていった。

そしてお茶を3つ持ってきた。

オレの隣りの若いじいちゃんが、

(以後若じいちゃんと呼ぶ)

コイツの分は?

と車掌に聞いてくれていたが、

オレの分はないようだ。

車掌は、オレのわかんないよ。を、

いらないよ。と受け取ったのかもしれない。

もう、覚えていないが、

わからないときは、

横に手を振りながら

「わからない」と、

しかも、笑顔をつけて言っているはずだから

ノーサンキューになって不思議はない。

おばあちゃんは、

オレを憐れに思ったのか

自分の分をオレにくれた。

年寄りの方のじいちゃんは

(以後大じいちゃんと呼ぶ)

湯は足して飲め、

とポットを指して言ってくれた。

中国のお茶というのは、

そういうものなのか、

湯飲みに直接葉が入っている。

お茶をもらったことでもあり、

黙ったままの団欒に少しつきあったが、

そのうちオレは

上のベッドに転がりまどろんだ。

10時過ぎに若じいちゃんが、

コップに歯ブラシらしきものを入れて戻ってきた。

オレとしても歯を磨きたいし、

残った茶葉が気になっていたので、

コップの中の葉はどうしたらいいのか、

と聞いてみた。が、わからない。

そこで永田に借りた『地球の歩き方中国編』から

≪以後『中国の歩き方』等と記す≫

書き写したものを参考に

中国語で書いて質問してみた。

そこから若じいちゃんとの筆談が始まった。

大じいちゃんから

パンフレットをもらっており、

それに本人の写真と

その作品であろう中国画が掲載されている。

このじいちゃんたちは

かなり有名な画家のようだ。

≪というのは、その後、車掌が

 サインを求めている場面にでくわしている≫

若じいちゃんは、

おれたちは絵を書くが

お前は何をやる人だ、

と聞いてきた。

オレにはその文がわからず、

写してきた虎の巻を見せると、

若じいちゃんは

ひとつひとつ読み上げては笑っていた。

オレは≪料理人≫と書いてみたのだがわからず

≪調理人≫と書いてみたり

いろいろ試してみたがわからず、

結局はジェスチャーということになった。

すると若じいちゃんは、

「おぉー、Cook!」

とこきゃあがった。

今思えば、

(英語わかるんだったら・・・)

とも思うんだが、

そのときは通じた喜びだけだった。

寝る前に大じいちゃんは

オレにリンゴとみかんをくれた。

オレが「ありがとう」と言っても

向こうはわかっていないようで、

もう一度、ありがとうと言い、

続いてシェイシェイと言ってみた。

するとわかったようで、

若じいちゃんたちに

「ありがとう」を楽しそうに説明してたなぁ。

2008年1月14日 (月)

本家

日本の体質が

中国の文化を受け入れ続けた産物だと

と、思わされたことが、また続く。

もう、1人になったオレは

代用チケットを改札で見せて、

とにかくホームへ向かいたい。

オレは、

なにしろ時間に終われることが嫌いで、

たとえば待ち合わせ場所へは

他人からすれば感心を通り越して

呆れるほど早く着(い)く。

その場所が長く居られる場所でなければ、

まずその近くまでは移動しておく。

笑い話だが―――

この旅とは違うが、

バンコクから帰るとき、

安いチケットだったので出発が夜中だった。

その日の昼にでも着けばよさそうなものだが、

コトバもできない、

地理もわからない、

ということで前日に

【正確には午前3時発だから前々日か】

空港のある駅まで着っている。

その周辺で泊まるつもりなのだが宿がない。

駅の目の前には立派なホテルがあるのだが、

いかにも高そうである。

それでも10000円ぐらいなら泊まってやろうと

【それまでは約300円の宿に泊まっていた】

勇気を出してフロントで聞いてみると

20000万円ほどだという。

【円に換算してです、以後同じ】

少し歩いてみたんだが

宿らしきものはなく、

どの列車に乗ればいいかもわかったので、

繁華街に帰ろう、

と駅に戻った。

ホームへ向かうオレの背に、

正装したおやじが声をかけてきた。

「安い宿を知っている」

いくらか、と聞けば6000円だという。

「そりゃ高い」

「じゃあ、あのホテルはいくらだと思う?」

と、前のホテルをさす。

「そりゃあそこに較べりゃ安いが、

 オレにとっちゃ高いぜ」

とは言ったものの、

一旦10000円を覚悟したオレにとっては

まんざらでもない。

話をしていると、

どうもタダでホテルまで乗せていく、

と言っているようだ。

あやしいじゃねえか。

そういうあやしさというものを確かめることが、

現地へ行く価値だと思っているオレは、

車に乗ってみた。

ホテルへ着くと6000円を自分に払え、という。

「君にか、なぜ」

「いや、分かった」

とドアーを開け

フロントへ案内した。

オレが6000円を出すと

フロントのねえちゃんはとまどった。

「5000円なのに1000円はチップか」

とでも言っていたのだろうか。

オレは言葉が分からず笑っていると、

感謝したような顔をして6000円を受け取った。

オレは人がいいから、

このことに気づいたのは

ポーターと5階に向かう途中のエレベーターの中である。

このやり取りを見ていたこのポーターが

チップをもらうため

なかなか部屋から出ず、

「オレは金がないのだ」

というオレの言葉を

容易に信じなかったことからも、

この推察に間違いはあるまい。

かなり余談が続いた。

実は、このタクシーの中での会話で、

「出発はいつだ」

「明日の夜中だ」

というやりとりがあった。

おやじに、

「じゃあ、なぜもう1日バンコクにいなかった。

 向こうなら安い宿もあるし、

 そういうところにいたんだろ」

といわれた。

言葉ができれば、

オレは慎重というより極度の心配性(症?)で、

分からない土地では1日の余裕を持って動く、

だいたい帰ろうとしたオレを

引き止めたのはテメエじゃねえか。

といってやりたかったが、

日本語以外は三河弁ぐらいしかできないオレは、

「me too」

といって笑いとばすのが精一杯だった。

上海へ話をもどす。

そういったわけでオレとしては

ホームを確認したかったのだ。

ところが入れてもらえない。

オレの代用チケットを見ると

≪26日17時38分次No.1≫とある。

間違っていないのだ。

ところが彼が指摘したのは有効期限である。

そこには≪22日≫とある。

そして、

「書き換えてもらってこい」

そんなことを言っているのだろう。

CITS事務所へ行き訴えると、

ボールペンで≪26日≫と

上から太く書き直しただけである。

バカにしたもんだ。

と思いつつ、

日本のお役所仕事を思い出しながら

改札で差し出すと、

彼はまだオレがホームへ入ることを許可しない。

時間的に「まだ!」だというのだ。

ムッとしたが、

本家はすげえや。

と思い直した。

2008年1月10日 (木)

ミンさん奮戦記-2-

まず、上海駅で

外国人用の切符売り場の長い列の後ろについた。

順番が来た。

が、

ここでは話にならず、冷たくかわされた。

しかし、その2つ隣にCITSの事務所があり、

そこへ行ってみると、

南京通りの事務所へ行け、となる。

タクシーを飛ばしてその事務所へ行くと、

『11時半から1時半まで昼休み』とある。

近くのレストランへ入りラーメンとギョーザを頼む。

料理がなかなか出てこない。

1時半になる。

そこで、オレたちは荷物を置いてCITSへ向かった。

なぁに、予約してあるチケットを

取りに行くだけのことなのだから。

【ホテルに泊まれなかった、という苦情より、

 シベリア鉄道の切符がないのだ】

ところが、だ。

この事務所の中でも、

あっちこっちと振り回され、

時間は刻々と過ぎていく。

とはいえ、振り回されているのはミンさんで、

オレはといえば、

まったく状況がわからず

呆然とミンさんを見守るだけである。

ミンさんも、

やっと状況がわかり、

オレに説明をしてくれた。

どうも上海までは

オレの件で話が届いていないらしいのだ。

スタッフのいる奥の部屋に入り、

ミンさんが女性スタッフと討論している。

最初はこのおねえちゃんもシブシブであったが、

北京への電話で、

俄然口調が変わった。

ミンさんは、

その電話の内容を同時通訳してくれている。

オレの話は北京で止まっており、

CITS側のミスではあっても、

上海側に落ち度はない。

問い詰めるような口調である。

そして、この日本人が、

上海のホテルで

以後の列車・ホテル(モスクワ)のチケットを受け取る。

ということが明らかになった以上、

真剣にならざるを得まい。

もうここのスタッフは

総がかりで電話をかけまくっている。

北京以降のチケットが用意されていても、

この日本人を北京まで移動させないことには

そのチケットは無駄になる。

しかも厄介なことにコイツ(オレ)は、

融通のきかないソ連へ行くのだ。

ところが北京行きの空がない。

ねえちゃんはもう怒鳴っている。

そんなとき、

向こう側のデスクの兄ちゃんが受話器を持って叫んだ。

チケットが取れた、

と思ったオレにとって、

この後のねえちゃんと向こうの兄ちゃんとの

やり取りほどまどろっこしいものはない。

それは、

どういった経路から切符が取れたかという確認であった。

ミンさんの話ではこうだ。

中国では、

組織力(会社?)ではかなわないものがある。

親戚はもちろん、

知人であるというだけで組織力に勝るらしい。

向こうの兄ちゃんの友人が、

オレの欲しいチケットを融通できる。

ということなのだ。

駅のキップ売り場でも、

知人であれば列に並ばなくて買えるらしい。

オレは、

かなりその列の長さを覚悟していったので、

面食らうことはなかったが、

オレの知っている行列にたとえるのならば、

初詣の豊川稲荷ほどではないが、

名駅(名古屋駅)前の

第一勧業銀行のジャンボ宝くじの

行列ぐらいはある。

かなりの時間を費やして

北京までの代用チケットを

手に入れたオレたちを待っていたものは、

冷めきったギョウザと、

スープをタップリと吸い込んで

膨れ上がってしまったラーメンであった。

それを笑いながら楽しく食べ終えると、

ミンさんはオレを上海駅へ連れて行ってくれた。

上海駅では、

コウさんたちが合流した。

【きのう一緒に騒いだミンさんの友人】

彼らは、一柳君らの航空チケットを買いに、

飛び回ってくれていたらしい。

そして、別れるとき、

「とにかく全部請求すればいいから」

と、

コウさんたちの使ったタクシー代の領収書まで

オレにくれた。

2008年1月 4日 (金)

ミンさん奮戦記-1-

朝食は3人で下の食堂へ降り、

ああでもない、こうでもないと言いながら

肉まんのようなものを食べた。

フロントで料金を払おうとすると

受け取ろうとしない。

オレを連れてきたおっちゃんから電話があったようで、

やっと50元を受け取ってくれた。

オレはタクシーを捜さなければならない。

ミンさんからメモを渡されており、

それを見せればミンさんとの待ち合わせ場所に着ける、

と言うわけだ。

ところが、

そのタクシーがない。

「タクシー、タクシー」

と騒いでいると、

「どうしました」

と日本語で話しかけてきた者がある。

フロントから少し離れたところに

デスクを持った兄ちゃんで、

彼はきのうのおっちゃんよりは日本語ができるようだ。

が、カタコトの域を脱しえない。

どうも、今の時間はタクシーはない。

と言っているようである。

それなら、と郵便局を教えてもらい

切手を買いに行くと、

そこにはタクシーがズラーッと並んでいるではないか。

これは、後でミンさんから聞いた話だか、

オレがタクシータクシーと騒いでいた時間は

タクシーの運ちゃんの朝礼時間であったようだ。

ということは、

中国のタクシーは郵政省管轄なのだろうか、

はたまた郵政部門は

運輸省の中に組み込まれているのだろうか。

そんなことはどうでもいい。

タクシーに乗れたのは10時過ぎである。

それからミンさんとオレは

たらい回しにされるのである。

2008年1月 2日 (水)

トマレナイ-3-

まず外へ出た。

歩いていると公用電話というものを見つけた。

一柳君らは、予定のない2週間ほどの旅で、

「ミンさんに観光案内してもらったら」

というオレの提案に、

「えぇ、まぁ自分たちで冒険(かいたく)してみますよ。

でも、途中で迷子になってみ~んさ~ん

(情けない口調で)なんて電話かけてたりして」

などと言って別れたきりだが、

その役はオレになってしまった。

電話番のおばちゃんが居る。

いくらか?と聞いてもなんとも言わない。

『金』と書くと、

勢いよくうなずくのだが、なんとも言わない。

そのうちほかのおばちゃんも寄ってきて

【このおばちゃんは単なる知人(やじうま)なんじゃないかな】

とにかくかけろ!と言っているようだ。

電話をするとミンさんは家に居た。

【ミンさんの実家は杭州で、ここは上海のおじさんの家】

とにかく浦江飯店に戻れという。

電話を終え、再度いくらだ。と、聞くまでもない。

指を3本立てている。

まさか3元じゃないだろう。

【探せば夕食が食える】

と思い、

角(元の1/10)や分(角の1/10)を見せると、

全部奪われ、2角返ってきた。

外国人用の紙幣のため不思議そうにしていたが、

後から来たおばちゃんが、

「もらっちゃえ、もらっちゃえ」

そんなふうに言ってたようで、

本当のところがいくらで、

いくら取られたかなんてわからなかった、

【自分がいくら持っていたか把握していない】

が、

100元でも価値はある。

と思い直して浦江飯店へ向かった。

これが8時ごろである。

ホテルを出て1時間になる。

上海の街はうるさい。

自転車は多い、2両編成のバスは通る、

そして、あのクラクション。

オレの耳は特別かもしれないが、

上海のクラクションの音は

「アブナイゾ!」じゃなくて

「ヒキコロスゾ!」に聞こえた。

「中村さん!」

浦江飯店へ着き、少しすると、

階上から一柳・岩崎両君が降りてきた。

説明して、

「困っちゃったよ」

【2人の顔を見てホッとしている】

と言っているところへ3人ほどの外国人が近づき、

【本当はオレたちが外国人】

Are you waiting for Min-san ?」

【確かにミンさんと言った】

と、声をかけてきた。

たぶん、到着の遅れる自分の代わりに、

少しでも早くと、

友人を派遣(?)してくれたのだろう。

などと思い込んでいたんだか、

本当のところは

ミンさんの帰国祝いパーティが計画されており、

友人との待ち合わせを

浦江飯店に変更してくれたのだ。

ミンさんは、

東京の歯科大学に留学しているのだが

中国へ帰ったら衣料品工場を造りたいと言っていた。

となると、

彼らはそのスタッフになる人達だ。

と、

オレは勝手に決め付けている。

まず、みんな(一柳・岩崎両君を含む)で

夕食を食べに行った。

一柳君は、

「青島麦酒、気にいっちゃったぁ」

などと、すでにハシャいでいる。

彼は船内で飲んで以来、

青島麦酒の虜になっていた。

それからオラオケに移り、

遅くまで騒いだ。

帰ったのは1時半である。

翌朝、

同室の2人に、

「さっそくいいところへ行って

盛り上がってるのかと思った」

などと言われたものだが、

こっちはそれどころではないのだ。

2007年12月29日 (土)

トマレナイ -2-

フロントで【ご自由に】といった感じの地図を拾い、

オレはホテルを出た。

一柳・岩崎両君の泊まる

浦江飯店へ向かうためである。

地図で、いち早く【浦江房覧】を見つけたオレは

丸印で囲み、

それを指しては道行く人に訪ね歩いた。

が、

たどり着くはずもない。

オレの目指すべきは【浦江飯店】なのである。

しかも、CITSのおやじには、

「浦江飯店はかなり安い宿だ」

(オレの泊まるはずだったホテルに較べてということなのだろう)

などと聞かされていたんで、

裏の細道ばかりを探していたのだ。

ラチもあかず、

ネオンを見つけ、

「ヨシッ、この店で電話を借りよう」

そう意気込んだ隣りに【浦江飯店】と光るネオンが見えた。

フロントで聞くと3B-3だという。

3階だろうと上がってみると、

そのフロアーの案内がかわいい娘だったので、

ドアーを見て歩けばわかりそうなものを、

わざわざ聞いてみる。

通じたのか通じないのか

「get out」という。

最初はそれすら聞き取れていない。

階段を指しているので、

上だとか、下だとか言っているものと思い、

下に行って聞いてみると、

どうもフロアーには違いはないようなのだ。

戻って聞いてみるんだが、

どうもこっちの血相がスゴイようで、

すっかり怯えちゃってる。

そんな自分の顔つきに気づいて、

「どうしよう。わかんないよねぇ」

日本語で、

笑いながら言ってみた。

すると向こうも笑い、

しばらくすると、

「フレンド?」と、

聞いてくれたりしてお互いが冷静になった。

そして「get out」は

外出していますってことなんだ。

と、悟った。

オレはこの旅の初日で、

旅のコツをつかんだ。

笑顔は最高のコトバだ、と。

こんなことがあったため、

オレはずうっと、

笑顔と日本語で通した。

努力の嫌いなオレは、

外国語を覚えるなんて、

一番避けたい分野だからね。

そして、今思うに、

笑顔は旅のコツではなく、

人生のコツと言っていいように思われる。

険しい顔して自分の主張をしたところで、

相手は理解しようとは思ってくれない。

たとえ相手が引いたとしても、

それは、理解したのではなく、

恐れであったり、

面倒になっただけのことだから。

しかし、このときのオレは、

旅のコツを知りえた喜びに

浸っているわけにはいかないのだ。

2007年12月24日 (月)

トマレナイ -1-

上海港では、

中国旅行会社(CITS)が迎えに来ている。

ところが、オレの名前はない、という。

ただ、オレのチケットは間違いなく自分の担当だ。

ということで、ホテルまでは車で

【連れて行ってやる】ということになった。

一柳・岩崎両君はこの車にはいない。

車中ほぼ、あのコーチ屋の生徒たちである。

みんな同じところで降りる。

残るのはオレだけである。

「じゃあ、生きてたら日本で会おう」

オレは予約したはずのホテルへ連れていかれた。

CITSのおやじが、

フロントで確認している間に、

オレは、売店に切手を買いに行ったが絵ハガキしかない。

「フロントで買え」

絵ハガキだけを買いフロントに戻ったオレに

CITSのおやじは、

「アナタ、トマレナイ」

と、カタコトの日本語で宣言した。

そして、親切に、か、

実費で泊まることになるので、

ここは高いから隣で泊まれ、という。

そして3人のドミトリーに案内されるわけだが、

そこで見た顔は

「・・・・・・日本で会おう」

と分かれたヤツらであった。

(隣りだったら一緒におろしゃいいじゃねえか)

とも思うのだが、

オレの泊まるはずのホテルは、

超がつきそうな高級ホテルだから、

横付けする必要があったのではないかと思える。

2007年12月16日 (日)

いざ、行かん -3-

中国のビザはガンジン号内でとれるらしい。

エコノミークラスは、

大阪――神戸間のフェリーと変わらない。

壁も仕切りさえもない部屋(といえるのだろうか)に、

中央を空け、

毛布と枕が両端にギッシリと

(30畳に22人)置かれている。

その同室(?)にコーチ屋がいる。

競馬場とかによくいるらしいが、

こいつは金を取るわけではない。

とにかく人をつかまえては中国を教える。

教えることが彼にとっての優越感の充実であり、

教えを聞くシロウトがかわいくてしょうがないのだろう。

多い時は7,8人の生徒が取り囲んでおり、

教えに一喜一憂している。

50時間ほどの旅で、

そのほとんどが同じ飯店に泊まるような話をしていたところを見ると、

イヤな男でもないのであろう。が、

最近のガキは多少嫌な相手にでも平気で媚びるという

オレにはできない芸当を若いうちから身につけているから、

なんとも難しい判断である。

などというのは、

根本的に、

オレがこういうの(軽薄な集団)が嫌いだから、

このコーチ屋をいいヤツだ。と、

認めたくないからだろうな。

オレはそういう妙なグループには入らずに過ごしたが、

4人の友を発掘した。

常に連れだって行動するようなことはしない。

たとえばメシを喰いに行くのに近くに居れば誘う、

といった大人(?)の付き合いである。

渡辺さんは、

それこそ海外旅行のプロで英語のしゃべれる宮大工だ。

一柳・岩崎両君は

かなり日本の中を旅しているようで、

コーチ屋に群がるような軽薄な連中とは違う。

(こう断言してしまうところにオレの気質が覗われる)

オレはカメラを持ってきている。

こういうものを持って旅をする趣味はないが、

送別会の時、

高橋さん≪【シャンク】というお店を

おっかさんとかみさんと3人で仕事を持ったまま始めた人で、

この店はオレたちの連絡場所になっている≫から、

「どうせフィルムなんか取替えれんだろうから、

 終わったらカメラごと送ってくれ」

こんな言葉とともにもらったものである。

このカメラの使い方(それほど機能のついたものでも

技術を要するものでもないがオレは機械オンチなのだ)を、

一柳君に教わりながらカメラのシャッターを押した。

それほど、夜の船が造る波しぶきが、

ゲンソウ的であったわけだが、ゲンゾウすると、

ただ、真っ黒なだけだったらしい。

25日朝、一柳君が、

海の色がだいぶあやしげになってきた。と、

オレに報告してくれた。

大陸に近づいているわけで、

海の色が緑というか黄というか、

そんな色になるようなならないような。

実にあやしげな様子を呈してきた。

この朝の朝食で、

中国人のミンさんと知り合うことになったのだが、

もし、このミンさんに出会わなければ、

オレのこの旅は挫折で終わっていたかもしれない。

いや、

きっと終わっていた。

2007年11月14日 (水)

いざ、行かん -2-

≪4月19日、11:22。

ただいまコインランドリーにて洗濯をしております。

機械がやってくれますので

ボクはひなたぼっこをしながら書いています≫

目的地を前にして、

かなりリラックスした文体になっている。

そしてこの日、大阪天王寺に着いている。

ここで大阪に住むアオイチャンと飲み、

22日、

弁天埠頭に向かい、そこから船で神戸。

23日、

神戸発のガンジン号。

乗り込む前にローソンに寄り

トイレットペーパー・カロリーメイト・乾電池(懐中電灯用)を買い込んでいる。

(ヨッ、さすが旅人)

2007年11月10日 (土)

いざ、行かん -1-

なかなか旅が始まらない。

ジツは、

オレも早く舞台をベルリンら移したいのだが、

ベルリンまでの道のりは実に長く、

ベルリン到着は5月5日の予定なのである。

送別会のフィナーレは、

オレが鳥羽行きのフェリーに乗り、

最後まで見送ってくれたみんなにテープを投げて終わる。

その後、彼らは吉田城裏に戻り、

ローソンで買ったオニギリを食べながら反省会を開いたという。

そしてバッティングセンターへ行き

「今度はいろりかぁ」

と叫び合い、別れたらしい。

なんとタフな集団だろうか。

オレも負けてはいられない。

フェリーを降りて少し歩き仮眠をとると、

伊勢へ向かった。

この日は伊勢で泊まり、

翌日から国道368号線・165号線を

西に向かったわけだが、とにかく何もない。

3OO番代の国道など歩くものではない。

北海道を歩いたころでも、

これほどの田舎道は通らなかった。

なにしろ、店がない。

ドライブインどころかパンを売っているような

駄菓子屋すらないのだ。

この状況を、当時の日記で表現してみよう。

≪≪4月16日、10:20。

♪風になって君に触れたい~シービーシッ♪だと、

がんばれば奈良だなぁってとこでもCBCだよ。

(中部日本放送が聴ける、の意)

メシ喰えねえ。

廃村になった峠村を過ぎて不動橋を渡って

美杉町に入ってもう2キロぐらいは歩いたかな。

まだ食堂がなく駄菓子屋すら見つからず、

おいしい水を川でたらふく飲んで、

やけくそで歯まで磨いちゃって爪まで切っちゃった。

もう昼になっちゃうぜ。

ここは川が曲がってて中州がある。

≪中略≫

野草の知識があれば、オレは喰ってるね、きっと。

「浜美枝のいい人見ィ~つけた、

今日はロザンヌさんでした」≫≫

この日は寒さでロクに眠れず

夜中じゅう歩いていたといっていい。

翌朝、ようかん屋でチョコレート

(本当は菓子パンくらい売っていると思って入ったんだが)

を買い、朝食兼昼食にしている。

2007年10月11日 (木)

プロローグ

この本を読む人が、

必ずしもオレを知っているわけではない。

突然、オレはベルンからマドリッドまでを、

3ケ月かけて歩いた。

などといっても、

何故、Way ? por que ?  なぜ?となるのではないだろうか。

ジツは、自分でもこの Way ? に、

整然とした答えが見出せないでいる。

どこから書いたらいいか、

その結論が出せぬまま、かなりの日を過ごした。

人間の行動というものは、元来衝動的なものが多く、

それが計画的なものであったとしても、

それを行おうとした動機というものは、

ほんのチョットしたキッカケのような気がする。

それが、ちょっとしたはずみで口を滑らせた言葉であったり、

反射的な発言であったり、

それを意地になって通してみたり、

回りの期待を感じてみたり、

そしてそれを、自分の中で正当化するため、

正義を見つけてみたりする。

だいたい正義なんてものは、

他人からしたら迷惑以外のなにものでもなく、

自分勝手の極地といっていい。

しかし人はこの正義という言葉に弱く、

正義の名の下に、数多くの失敗を演じてきた。

正義なんてものは、

その時代のその状況にだけ通用するものである。

少なくとも、

まだまだ未熟なわれわれ人類の捻出した正義などというものは。

いきなり話がそれた。

まぁ、オレにとってのキッカケは、口を滑らせたことにあるね。

そのシチュエイションとしては、

5人ほどで、半年間のオーストラリアの旅から帰ってきた

NTの土産話を世界地図を眺めながら聞いていたといった状況。

ヨーロッパを見ていたオレは、

ふと「これなら歩けそうだな」と言ってしまっていた。

オレは北海道――京都を50日、

東京――長崎を40日で歩いたことがあったんで、

日本がチッョト広がった程度(距離が)に見えて、

3ケ月もあれば歩けるだろう、と考えていた。

オレにとって歩けるというのは、

寝袋だけで寝られる季節をさし、

東海地方であれば4月下旬から9月ぐらいまでであり、

その範囲に国境などない。

要するに5ヶ月ぐらいで歩ける距離であり、

3ケ月といえばちょうどいい(?)距離なのだ。

当初、オレはモスクワ――マドリッド間を考えていたが、

詳細な地図でたどってみると、

とても5ヶ月ではムリだということを悟らされた。

そして、東ヨーロッパはうるさい(ビザの申請等)

ということなので、

西ドイツの東端のハンブルグから始めようと決めた。

その後ベルリンの壁が崩壊したんで

ベルリンからということにした。

マドリッドに着いたら

半年ぐらいはスペインをブラブラしようと思い、

1ヶ月10万、ザッと1年で120万を予定し、

2年後の春出発、とした。

このころのオレはスペイン語に興味があった。

語学的な理由ではなく、

スペイン語を教えている知人がいたためである。

そして習い始めた。

オレはもともと英語の発音に興味があり、

それを知っていたH先生は、

「スペイン語を習いたい」

というオレの発言に、

「ウソだろ」

喜びの中にも当惑は隠せなかった。

マドリッドが執着地であることが揺るがなかった理由は、

このあたりにありそうである。

飛行機が怖いオレは船で中国に渡り、

シベリア鉄道でベルリンまで行くことにした。

ベルリンまでは、

上海・北京・モスクワと、

出迎え付きの至れり尽くせり完全受身型のコースを選んだ。

あくまでもオレの旅はベルリン――マドリッド間にある。

ソ連に用はないが、

列車の乗り換えは一泊しなければならない、

というソ連特有のルールがあった。

そのためベルリンへの乗換えでモスクワ、

そして上海・北京でも、

旅行会社の都合でいずれかに一泊しなければならない。

そしてそのホテル(オレの場合上海)で

シベリア鉄道の切符を手にすることになっている。

オレは死を覚悟した。

いや、覚悟などという現実性はなく、

死ぬかもしれない、という思いを漠然と持った。

そして、オレは盛大な送別会を催すことを提案した。

NH・NT・SA・KKがスタッフとなり、

送られる本人が企画するという、

まことに奇妙な送別会が

1991年4月13日、

豊橋市街・豊川河岸・伊良湖岬と場所を移して

行われる運びとなった。

一次会の居酒屋【いろり】には

バカを送る70人のバカが集まった。

10時で終わり二次会の豊川河岸

(オレたちの間では吉田城裏と呼ばれている)での

KKコンサートの12時まではフリータイムの予定であったが、

店の好意で閉店まで盛り上がらせてもらった。

途中から来る者、顔だけ見せる者、途中で帰る者、

最後まで残ったのは30人程度であろうか。

この間、NT・SA両君は白いトレーナーを着、

何色ものマジックを持って

みんなにメッセージを書いてもらっている。

二次会である河原に向かうころには小雨が降りだし、

コンサートは強行されたものの、耐え切れず、

豊橋美術館(歩いて3分)の軒下に場所を移した。

そしてコンサートのような宴会のような

わけのわからない時が流れた。

この間、仮眠をとっている者もある。

三次会へ向かうために

運転手に指名されてしまっているMさんである。

そして夜明けごろ伊良湖へ着くと、

みんなは一時間ほど、車の中でまどろんでいる。

このころは10人ほどになっていた。

三次会では浜で飯盒炊飯ということになっといたのだか、

ハプニング、というより、大ボケがある。

とん汁の具、鍋の係りはKKである。

これは問題ない。

飯盒・米の係りが米を忘れてきたのだ。

その係りは、オレだ。

二次会で合流したKK・SDが持ってきた

ビールなら何本でもあるのだが、肝心の米がない。

飲もうか、ってなわけにもいかず、

しょうがねえなぁ、

などと言っているところへ、妹が米を持って現れた。

無事米をたくことができ、

なかなか賑やかな朝食となった。

塩がないから、海水でおにぎりをにぎる、

などとSA君ははしゃいでいるが、

水分が多くて、にぎれるものではない。

2007年9月27日 (木)

はじめに

ボクは、27歳のとき(1991年)に、初めて海外に行きました。

メインは、ベルリンからマドリッドまで歩いた3ヶ月ですが、約半年の旅です。

この旅の思い出を本にしようと、5年後に原稿を書き始めました。

いろいろな方のお力を得て、信頼できる出版社に縁ができ、

34歳のときに、自費出版することができたのが、

この 『オレがみてきたもの』 です。

知り合いに配っているうちに、手元には本がなくなってしまいました。

この場をお借りして、再販です。

作字(?)もありますので、ボクのパソコン技術ではどうにもならない部分もありますが、

本文は、明らかな誤字・脱字以外は原文をそのままアップします。

その後の物語などもあったりしますし、

ご興味のある場面などはコメントください。

詳細や、もしあれば、その当時の写真などもアップしたいと考えています。

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